ロシア革命とスタ−リン主義の崩壊
「新階級」理論の破産
トニ−・クリフとマックス・シャクトマン:
反革命の親帝国主義的共犯者達
1917年10月のロシア革命は、20世紀を形作る出来事だった。第一次世界大戦の終結で、世界中でプロレタリア革命闘争の波が見られた。その闘争は、帝国主義間殺戮の歴史上前例の無い虐殺で広がった激変によって高まった。革命的な労働者階級の高揚が、ロシア、フィンランド、イタリア、ハンガリー、ドイツで起った。他の場所でも、軍隊が叛乱し、大規模で戦闘的なストライキが以前に見たことも無い規模で産業を中断させた。しかし古いツァー帝国だけで、労働者階級が国家権力を奪取しうまく維持していた唯一の領域だった。それによってこの国家権力は、資本家階級を収奪し、集産化された計画経済の建設を始めた。レーニンのボリシェビキ党指導部は、その勝利の決定的要素である事を証明した。ボリシェビキによって組織された前衛の層は、すでに彼ら自身とツアー帝国の労働運動における様々な解党主義、社会排外主義、修正主義、改良主義の潮流との間に徹底的な分裂を達成していた。この分裂によって、レーニンの革命的マルクス主義労働者党は、機会が来た時に、障害物を取り除き、ブルジョア国家を粉砕し、労働者評議会すなわちソビエトに基づく国家を創造するように労働者階級を導く事ができた。
戦争が始まった時、第二インターナショナルの個々の党のほとんどが自国帝国主義政府を支持し、プロレタリアートを殺戮に導く事を助けるなかで解体した。この時にレーニンは、第二インターナショナルが革命勢力として死んだと認めた。ボリシェビキは、共産主義インターナショナルとしての第三インターナショナルのための闘争において革命的国際主義者を組織再編しようと試みた。そして第三インターナショナルは、1919年にモスクワで最終的に創立された。しかしドイツとイタリアでは階級の前衛は改良主義者や社会平和主義者との決裂が遅すぎた。ハンガリーとフィンランドではプロレタリアの蜂起が起こったとき、熱望した共産主義者は、社会民主主義者と統一した。見込みある革命的情況は、革命指導部の未成熟のためにつぶされた。同時に社会民主主義者は、労働者階級を資本主義秩序に繋ぎ止めるための帝国主義者の不可欠な援助者であることを証明した。彼らは「民主的」外見を整え、その下で明白な反革命的民族主義テロを動員しその血塗られた汚い仕事を実行した。
カール・マルクスは、1848年に歴史上最初の巨大な革命的波について書いた。彼はヨーロッパのいかなる国での革命も、イギリスを巻き込む事なしには長く存続しえないと主張した。
「ヨーロッパ大陸のいずれの国の国民経済諸関係の変革も、全ヨーロッパ大陸上の変革も、イギリスをふくまぬかぎり、それはコップのなかの嵐である。各国民内部の商工業の諸関係は、その国民と他の諸国民との交易によって支配され、その国民の世界市場にたいする関係によって制約される。ところがイギリスが世界市場を支配しており、そしてブルジョアジーがイギリスを支配している。」「革命運動」『新ライン新聞』(1849年1月)『1848-49年の革命』(1972年)に転載。
資本主義によって創り出された世界的分業を基に築く事なしには、社会主義社会の建設のために必要とする物質的豊さを創り出す事は不可能である。マルクスはすでに次のように述べていた。「したがってやむをえない必要にともない必須物のための争いも再燃して、旧弊のことごとくがまたもや出そろってくるにちがいない…」『ドイツ・イデオロギー』(1845-46年)。そのうえ、経済的に強力な資本主義諸国が存在し続ける限り、反動は反撃を動員するための砦を保持する。スターリンが「一国社会主義建設」というドグマを宣伝したおよそ80年前に書かれたマルクスの言葉は、この不合理への強烈な告発である。
ボリシェビキが権力を握った後のロシア革命の浮沈は、世界帝国主義が孤立した革命的労働者国家を圧迫できる様々な武器を豊富で残虐なまでに詳細に示している。14もの異なった資本主義国の軍隊による侵略から、旅行、貿易、投資の禁止措置、そして土着の反革命勢力の武装に至るまで、帝国主義諸国は、最大限の力を使って、孤立し経済的に荒廃したソビエト・ロシアを絞殺しようとした。世界の諸ブルジョアジーは、世界市場から投資と搾取の巨大な地域を剥ぎ取った国家との共存を拒否した。労働者国家が、5年もの間の孤立の中で世界革命の砦として持ちこたえた事は、重要な歴史的業績であった。そして十月革命から生まれ出た国家が、堕落した形態の中で、1924年の初期に労働者階級から権力を奪ったスターリニスト官僚カーストの誤った運営にも拘わらず、およそ70年間維持された事は、計画化された集産経済の途方も無い経済的な力の証明である。ボリシェビキ革命の引き続いた歴史的反響は、東欧、中国、北朝鮮、ベトナム、キューバにおける資本主義の打倒とスターリニストのイメージに合わせた歪曲された労働者国家の創造によって実証された。
ロシア革命の堕落の決定的要因は、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツを揺るがした革命的な経済的政治的危機の結果である。その危機の原因は、戦争の賠償支払を求めて、フランス軍が、ルール工業地帯に侵入した1923年に起った。1918年の終わりに展開する革命の真只中で、ドイツ共産党(KPD)の核であるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトに率いられたスパルタキスト・グループは、カール・カウツキーの中間主義のドイツ独立社会民主党(USPD)と分裂していた。カウツキーの党は、その社会平和主義と日和見主義的実践を似非マルクス主義的大言壮語を使って隠し、公然たる改良主義のドイツ社会民主党(SPD)にとっての不可欠なカバーを提供した。1918-1919年のドイツ革命は、より早い時期に、KPDがカウツキーと分裂しなかったことによって破滅した。しかしその後に起きた諸事件は、カウツキーによる中間主義との党の綱領的イデオロギー的決裂が、決して完全ではない事を証明した。問題は、1919年初頭におけるルクセンブルクとリープクネヒトの殺害によって悪化しただけだった。カウツキーのロシア革命に対する猛烈な攻撃に対して応じたのは、生まれたばかりのドイツ共産党の指導者達ではなく、レーニンの『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)とトロツキーの『赤軍と白軍の狭間に』(1922年)だった。これらの著作は、著者達がソビエト国家を運営し、白衛軍に対して内戦を闘い、第三インターナショナルを鼓舞し率いると同時に書かれたものである。ドイツの党が1923年の革命期でさえプロレタリアートを蜂起させなかったことは、ソビエト労働者階級の間に士気沮喪を広め、翌年の初頭にスターリンによる勝利への道を準備した。トロツキーが、彼の『十月の教訓』(1924年)の中でとても力強く説明したように、1923年におけるKPDの無能力は、革命指導部の問題が、帝国主義期の決定的な問題である事を否定的に証明された。
世界の帝国主義は、世界で最初の労働者国家を破壊しようとする抑え難い欲望の中で、その社会民主主義の従僕や多くの他の左翼の援助を享受した。カール・カウツキーから、プロレタリアート独裁に敵対するアナーキスト、1939-40年にアメリカのトロツキスト運動から分裂したマックス・シャクトマン、今や消滅した毛沢東主義運動に至るまで、長年にわたって全ゆる勢力が、ソ連邦をある種の「資本主義」か「新しい階級」社会であるといった様々な説明をしようとした。粗暴で保守的なスターリニスト官僚の台頭は、いたるところの階級意識ある労働者の隊列の間に激しい嫌悪と混乱を広めた。それは、反社会主義イデオローグ、そして「民主主義」の名前で資本主義帝国主義に協力するために正当化しようとするそのイデオローグの「左翼」追随者への重要な贈り物となった。
今日このような潮流の中で最もよく知られている変種は、トニー・クリフとイギリスの社会主義労働者党に率いられた国際的テンデンシーであり、その加入者にはアメリカの国際社会主義協会(ISO)を含んでいる。クリフグループ(と労働者の権力「ワーカーズパワー」のような非常に多くのその枝派)は、外部の帝国主義の攻撃あるいは内部の資本主義復活の試みに対して堕落したソビエト労働者国家の無条件の軍事的防衛の綱領をめぐって、トロツキズムからのマックス・シャクトマンによる根本的決裂の直接的伝統の上に立っている。これは、国家資本主義「理論」が、いわゆる「社会主義者」を自国支配階級と和解させる掛け橋だと言う事をはっきりと実証している。
ソビエトの堕落した労働者国家と第二次大戦後の東欧の歪曲された労働者国家の階級的性格を否定することによって、シャクトマンやクリフのようなこうしたトロツキズムからの背教者による「新しい階級」理論は、プロレタリアートの階級的利益に対する彼らの裏切りと彼らの資本主義との和解を正当化しようとした。実際には、似非マルクス主義的用語を装ったこれらの「理論」は、反共主義のブルジョア世論への屈服という彼等の真の綱領を隠そうとする事に他ならなかったし、プロレタリアートの革命的展望の放棄を隠そうとするものにすぎなかった。
従って、シャクトマンによるソ連邦の無条件防衛の放棄は、1939年の独ソ条約後における人民戦線主義的プチ・ブルジョア世論に対する彼の屈服によって早められた。1950年に、トニー・クリフは、同じ防衛主義の問題でトロツキー主義の第四インターナショナルから決裂した。この時は、朝鮮戦争の勃発に伴う反共主義の冷戦ヒステリーによって早められた。クリフは、国連の後援の下で多国籍「警察行動」の形を取った帝国主義の攻撃から中国と北朝鮮の歪曲された労働者国家の無条件の軍事的防衛というトロツキー主義の立場に背いた。これは、イギリスブルジョアジーとその社会民主主義の従僕への臆病な屈服であった。その時にイギリス軍を朝鮮に派遣したのは、まさに労働党政府だった。
クリフの国家資本主義の「理論」は、内部的にはマックス・シャクトマンの「官僚制集産主義」理論と異なり、10年後に創られたものであるが、それらが共通しているものは、帝国主義の攻撃から堕落したあるいは歪曲された労働者国家の無条件の防衛というトロツキー主義の綱領を放棄する手段として奉仕している点である。各々の「理論」は、異なった民族的な政治領域で生じた。シャクトマンは第二次世界大戦前夜のルーズベルトによる「ニューディール」の間アメリカで活動していたが、ヒットラーとスターリンに代表される「全体主義の恐怖」と言うオーウェル風の観点を反映していた。この観点は、彼が共鳴していたプチ・ブルジョア・ミリューの心を捕えていた。クリフは、朝鮮戦争が勃発した時、腐敗したイギリス労働党に屈服していた。こうした党をレーニンは「ブルジョア労働者党」と述べた。従って各々が、その時代に、自国ブルジョアジーの反ソ主義への屈服を表わしていた。
シャクトマングループ自身がアメリカ社会民主主義の極右翼の中で冷戦推進者となって以来、「官僚制集産主義」の「理論」の支持者については、あまり聞かない。しかしショーン・マットガムナによってイギリスで出版された新しい本は、「官僚制集産主義」を復活しようとしている。それは、『ロシア革命の運命: 批判的マルクス主義の失われた原典第一巻』(1999年)と題した収集の中でシャクトマンとシャクトマングループの原文を出版した。後知恵の利点を生かしてシャクトマンの新しい賞賛者が選択したにせよ、マットガムナの本は、スターリン主義化したソ連邦に関する彼の師による反マルクス主義的分析の完全な無意味を実証する十分な資料を含んでいる。我々がそれを示そう。
「一国社会主義」
ボリシェビキが帝国主義の侵略を撃退し内戦に勝利したにもかかわらず、若いソビエト共和国は、技術的にも社会的にも後進的な農業基盤に束縛され、帝国主義戦争と内戦によって荒廃させられた社会的基礎構造と産業を急速に再建するために必要とされる資源が不足していた。プロレタリアートはすでに存在するのをやめかけており、その最も意識的分子は内戦で殺されるか、あるいは国家機関や党機関に吸収されていた。これらの条件の下で、世界で最初の労働者国家は、1924年1月の第13回党大会において、左翼反対派の事実上の排除を伴う政治的反革命をこうむった。出現した堕落した労働者国家の中で、スターリンに率いられた官僚機構は、社会化された財産諸関係を破壊したのではなく、プロレタリアートから政治権力を簒奪したのである。官僚制を回顧的に分析する中で、トロツキーは、フランス革命の間のテルミドール9日における急進的なジャコバン派の追放との類推を使った。
「社会的には、プロレタリアートはブルジョアジーよりもいっそう等質的である。だが、それは自己の内部に無数の層をもっていて、それが、権力獲得の後、官僚と、官僚に結びついた労働貴族とが形成されはじめる時期を通じて、非常にはっきりと現われる。左翼反対派の粉砕は、最も直接的な意味において、権力が革命的前衛の手から、官僚のいっそう保守的な分子と労働者階級の上層の手に移行することを意味した。1924年―これこそソビエト・テルミドールの始まりだったのである。」『労働者国家、テルミドールとボナパルティズム』(1935年)
レーニン死後の1924年1月にはまた、スターリン分派は、ボリシェビキ党を「レーニン記念募集」により発生しかけている官僚分子であふれさせ、1924年12月には、「一国社会主義」という誤ったドグマを打ち出した。「一国社会主義」は、当初は、不可能な経済的自給自足と孤立主義の行きづまった路線を表した。次の時期のコースを通じて、共産主義インターナショナルの政策はジグザグに進んだ。1925-27年の第二次中国革命の間、中国共産党を「民族ブルジョアジー」への自殺的な従属を命令した官僚主義的中間主義から、1933年ドイツにおいて闘い無しでヒットラーに権力の獲得を許した「第三期」のセクト主義、1936-37年のスペイン革命を絞殺した人民戦線のあからさまな改良主義による階級協調主義に至るまでジグザグに進んだのである。スターリン分派は、最初に党内の競争相手を一掃し、次にスターリン派閥は、分派内でこの派閥に挑戦できる者を粛清した。スターリン派閥に代表された官僚カーストがある程度の歴史的意識に到達するなかで、「一国社会主義」は、帝国主義との「平和共存」を幻想的に追求して、外国の共産党を交渉材料に変えるためのイデオロギー的な正当化となった。
スターリンは、13回党大会への選挙をあやつり、そして続く数年の間に弾圧と粛清の波を解き放った。(二頁の「スターリニストによるテルミドール、左翼反対派と赤軍」を参照)左翼反対派、ジノビエフやカーメネフやブハーリンのような以前の分派同盟者、クラーク、芸術家、知識人に対するスターリンの弾圧の残忍性は、彼の政権が常に危険にさらされていると言うスターリンの認識に由来している。プロレタリアートを政治的に収奪しボリシェビキの国際主義プロレタリア綱領を覆す一方で、ボリシェビキの遺産を相続していると主張し続けるため、スターリンは、警察国家テロに支援された「大嘘」を必要とした。
帝国主義の腐朽の中で資本主義体制は、新しい革命的機会を引き続き提起していた。とりわけプロレタリアートの間で急進化を推進した1930年代の大恐慌のような資本主義に内在する周期的な経済危機、ブルジョアジーの矛盾によってより貧しい諸国でファシスト政権になる事、世界を再分割するための大量破壊による新たな帝国主義間戦争。これらは再び革命の母に成るはずだった。
西欧のスターリニストは、イタリアやフランスやその他の場所で戦闘的労働者の大衆組織の先頭に第二次世界大戦から現れ出た。しかし特にスターリニストによる階級協調のおかげで、アメリカ帝国主義は、西欧と日本における資本主義を再度安定化する事ができた。四半世紀の後、統一したベトナムの歪曲された労働者国家の創立に導いたベトナムのスターリニストが、アメリカ帝国主義者を軍事的に敗北させたことは、帝国主義者をひどく弱体化させた。1960年代後半と1970年代初頭には、ヨーロッパ(1968年のフランス、1969年のイタリア、1975年のポルトガル)で一連の前革命的状況や革命的状況が現れた。これは、第二次世界大戦の直後以来、先進資本主義諸国においてプロレタリア革命のための最も良い機会を示した。これらの地域で動揺したブルジョア秩序を再びどうにか維持したのは親モスクワの諸共産党だった。このように西欧スターリニスト諸党の反革命的役割は、引き続くソ連邦の破壊に計り知れないほどの貢献をしたのである。
1991-92年の資本主義反革命による十月革命の獲得物の最終的破壊は、「一国社会主義」が不可能であることの最大の確証であった。世界プロレタリアートにとってのこの破局は、我々が住んでいる世界を大きくつくり変えた。大規模な貧困化と民族紛争は、旧ソ連邦と東欧の人々を荒廃させた。「第三世界」の名目上の独立国は、帝国主義者の無制限な経済的取立てとその野蛮な軍隊に直面しており、もはや「二つの超大国」の間でかけ引きをする事はできない。帝国主義間対立がブルジョア支配者による反ソ主義の共通した行動にもはや束縛されないので、先進資本主義諸国の労働者は、労働搾取率の増大によって、より大きな競争を成し遂げるための激しい攻撃に直面している。プロレタリアの階級意識は投げ戻された。ブルジョアジーが「共産主義が死んだ」ことの「証明」としてスターリン主義の崩壊を指摘するなか、社会主義の理想を階級の利益と同一視する労働者の考えはどん底にある。
資本主義反革命 : 「わき道にそれる」?
今日、米国のクリフグループは、「東欧での革命は一つの形態の資本主義から別の形態の資本主義へのわき道であった」『Socialist Worker (社会主義労働者)』(米国版、1999年4月23日)などと臆面もなく言明している。現在こうした考えを持ちだしたとしても、いかなるロシア人労働者も信じはしない。旧ソ連で現在生じている空前の経済的、社会的内部崩壊は、計画化された集産経済がほんとうはいかに歴史的に進歩的であったかを示す紛れもない尺度なのである。ソ連崩壊後のロシアの大混乱状態にあって、資本主義の諸法則は経済の全面的崩壊へと帰着した。つまり、生産は1991年以来少なくとも50パーセント落ち込み、資本投下は90パーセントまで落ち込んだ。現在、ロシアにおいて都市部の労働力の三分の一が実質的に失業状態にあり、人口の75パーセントの人々が必要最低限以下の生活か、それをかろうじて上回る程度の生活を強いられ、1500万の人々が現実に飢餓状態にある。平均余命は劇的に低くなり、今男性では57歳でしかない状態で、それは一世紀前より低いのである。一方全人口は、実際に1992年から1997年まで350万人減少した。
統計だけでは、悲惨化の規模と激しさを伝える事はできない。生産、技術、科学、輸送、暖房、下水道の社会的基盤は分解している。栄養失調は学童の間で普通のこととなった。約200万人の子供が、もはや彼等を扶養できない家族から捨てられている。電気や水道のような基本的なサービスの提供は、国の広い地域でまばらになっている。旧国営による全般にわたる保険制度の崩壊にともない、結核のような病気が流行している。トロツキーが予言したように、資本主義復活は、ソ連邦を、帝国主義略奪による全ゆる惨害の餌食となる貧困化した不毛の地にしたのである。
その貧弱な理論に執着する一方で、クリフグループとその同類は、彼等の真の貢献について奇妙に控えめである。ソ連邦と東欧における資本主義復活は、彼等の綱領の実行であった。米国によるキューバのピッグス湾侵攻を支持したシャクトマンのように、クリフとその仲間は、米帝国主義を冷戦で勝利させようと最大限努力した。彼らはアフガニスタンにおいてソ連軍が血まみれになることを熱望し、またポーランドにおける資本主義反革命のためにバチカン、ウォール街、西欧社会民主主義の道具となった連帯の「労働組合」信用証明を擁護し、さらに1991年にはエリツィンのバリケードにいた闇商人、君主主義者、ヤッピーと同様の気持をいだいて踊った。『ソシアリスト・ワーカー』(1991年8月31日)は、エリツィンの勝利を吹聴して次のように書いた。「共産主義は崩壊した…これは全ての社会主義者が喜ぶべき事実である」。現在クリフグループは彼等が望んだものを手に入れている。
「国家資本主義」と「官僚制集産主義」理論の不条理は、分解するスターリニスト官僚制による堕落したソビエト労働者国家と東欧の歪曲された労働者国家の単純なあけ渡しに照らしてみても明白である。歴史の中でこれまでに自発的に権力を譲り渡した有産支配者階級はいない。にもかかわらず、カウツキーによる「国家資本主義」の改訂が「マルクス主義者」として名を高めたと主に言い張るクリフは、現在、旧ソ連邦における反革命は彼の分析を確認したと主張している。『ソシアリスト・レビュー』(1998年7月〜8月)の「時の試練」と言う記事の中で、クリフは、ついでに、スターリニスト官僚制の「国家資本主義的」性格が、今日資本家として旧官僚の何人かが出現したことで証明されたと主張する。実際、トロツキーは、1936年の研究『裏切られた革命』のような発展可能な著作の中で、支配カーストは全ゆるブルジョアジーの欲求と熱望を持っているが、しかし堕落した労働者国家の社会化された所有形態によってそれを実行するのを抑制されていると指摘した。
クリフはさらに断言する。「もしロシアが社会主義国であるならば、あるいは、たとえ堕落し歪曲したものであれスターリニスト体制が労働者国家であるなら、スターリン主義の崩壊は反革命が起きた事を意味しただろう。そのような状況の下では、労働者は、労働組合全体を一掃しようとする者から、たとえどんなに右翼か官僚的であるにせよ、いつも彼等の労働組合を防衛する同じ方法で労働者国家を防衛しただろう」。国際共産主義者同盟(ICL)は、ロシアにおけるスターリン主義ボナパルティズムの崩壊を、1991年のパンフレット『いかにソビエト労働者国家は絞殺されたか』の中で、また『スパルタシスト』英語版45-46号(1990-91年冬)の中で出版されたジョセフ・シーモアとアルバート・セント・ジョンの文書で広範囲に分析した。資本主義国家では、政治体制の変化は、自動的に機能する傾向にある無政府主義的なブルジョア経済にはほとんど影響を与えない。それとは対照的に、プロレタリア革命は、生産力を革命が創り出す国家に直接移し変える。計画化された社会主義経済は、意識的に建設され、その継続した存在は計画化された社会主義経済を防衛する国家権力の政治的性格と不可分である。ソビエト・プロレタリアートが反革命と闘わなかったという事実は、官僚制によるプロレタリア意識の組織的破壊を証明している。そしてトロツキーは『レーニン死後の第三インターナショナル』の中で次のように記した。「もし軍隊が危急の際に一戦を交えずして敵に降服したとするならば、この降服は全く『決定的戦闘』のかわりをなすもので、政治の場合も戦争におけると同じことである。」
シャクトマングループとほとんど違わないクリフグループは、経済よりむしろ実態の無い「権力」を結局決定的なものだと見なす。彼等にとって、スターリニスト支配の強さと恐らくその永久性は、その弾圧の否定できない無慈悲さから出てきた。労働者階級の革命的能力に関する深い悲観主義によって動機付けられるなかで、こうしたトロツキズムからの背教者達は、資本主義の公然たるブルジョア擁護者と同じ宣伝を演説口調で話す。そのブルジョア擁護者は主張した。「民主的な」西側の労働者と違って、スターリンの「全体主義」はロシアの労働者が彼等自身の利益のためのいかなる闘争も決して再び行わないと保証する。
階級的内容に関係なく「民主主義」を究極的な歴史的進歩的目標へと持ち上げる事は、ブルジョア秩序の防衛者のための書物の中で最も古いごまかしである。『プロレタリア革命と背教者カウツキー』の中で、レーニンはカウツキー派の中間主義者に数々の屈辱を加えた。こうした中間主義者は、1922年にエーベルト、ノスケ、シャイデマンの社会民主党に戻ることができた。「ブルジョアジーに追従し、ブルジョア議会制度に順応し、近代民主主義のブルジョア的性格については口をつぐみ…」。マルクス主義者に向けて、レーニンは次のように記した。「民主主義の形態とこの制度の階級的内容とが別物である」と。
ソビエト国家の階級的性格
官僚は腐敗した支配カーストであり、所有階級ではなく十月革命から生じた国家と諸制度の上にできたこぶであると言うトロツキーの理解は、スターリン主義を決定的に破滅に導いた明白な矛盾を規定した。集産化された財産形態に基づく国家と世界帝国主義秩序との間でバランスをとる一種の世界的仲裁者として、その支配はもろく根本的に不安定であった。『ソビエト国家の階級的性格』(1933年)の中で、トロツキーは次のように断言している。
「マルクス主義者にとっては、階級とはこの上もなく重要な、しかも科学的に限定された意味を持っている。ある階級は、国民所得の分配に対するその関与のあり方に加えて、経済の全体的構造内部におけるその独立した役割と社会の経済的基礎内部におけるその独立した富の源泉によって定義される。各階級(封建貴族、農民、小ブルジョアジー、資本家ブルジョアジー、プロレタリアート)はその独自の所有形態に帰着する。官僚はこうした社会的特性をすべて欠いている。それは生産および分配過程内部に独立した位置を持っていない。それは財産の独立的源泉を持たない。その諸機能は根本的には階級支配の政治的技術に関連するものである…
「それにもかかわらず官僚の諸特権はそれだけではソビエト社会の基礎を変化させるものではない。なんとなれば官僚は、『階級』として自らに固有な何らかの特別な所有関係からその諸特権を引き出しているのではなく、十月革命によって作り出され、根本的にはプロレタリアートの独裁にこそふさわしいあの所有関係からそれを導き出しているからである。
「わかりやすく言えば、官僚が人民に対して略奪を働いている(これはどのような官僚も様々な手段を使ってやっていることである)限り、問題は科学的な意味での階級的搾取ではなく、いかに大規模であれ社会的寄生なのである。」
トロツキーによるマルクス主義の観点に反対するなかで、あらゆる反革命勢力は、スターリニストの支配エリートを実質上堅固なものとして鼓吹するというやり方だった。これらの中で顕著なものは、もちろん、自国の国境内で確実に「社会主義を建設する」と主張したスターリニストのイデオローグ自身だった(それは彼らが、断定された必然性、実際には資本主義の優位性を発見するまでだが)。もし十月革命の最終的破滅が、トロツキーの分析と綱領を否定的に確認したのならば、それは少なくともスターリン主義が安定した体制であると言う全ての意見が陳腐である事を暴露している。
シャクトマンは、プロレタリア政治革命がないときスターリニストが労働者国家を完全に解体できると言うトロツキーの警告を嘲笑った。
「トロツキーは、スターリン主義に、スターリニスト官僚に、労働者国家の経済的基盤を掘り崩すと言う役割を割り当てた。生産手段と交換手段の漸進的な非国有化、外国貿易の独占の緩和によって、スターリン主義は、私的財産と資本主義の復活の道を掃き清めるだろう…その様な事は何も起こらなかった。」マックス・シャクトマン「反革命的な革命」『ニュー・インターナショナル』(1943年7月)マットガムナ編『ロシア革命の運命』に転載。
しかしこれがまさに実際ソ連邦と東欧で起きたことである。そしてそれは真のトロツキストが起こらないようにするため闘った歴史的な敗北だった。
「ソ連論」とトロツキズムの綱領
トロツキーは、1923-24年にソビエト労働者階級から政治権力を簒奪したスターリニストのカーストに対して、またそれにもかかわらず、十月革命から生じた労働者国家を無条件に防衛するために闘った。官僚制は、テロと嘘の組み合わせを通じてのみ権力を保持し、ソビエト・プロレタリアートをアトム化し士気沮喪させた。そして計画された集産経済を堕落させ、「一国社会主義」の名で国際的なプロレタリア革命を通じた十月の獲得物を拡大させる可能性を妨げた。トロツキーは次のように説明した。
「ソビエト体制の内部で二つの相反する傾向が増大しつつある。ソビエト体制が、衰退しつつある資本主義と反対に生産力を発展させていくかぎり、社会主義の経済的基盤を用意していく。ブルジョア的な分配基準を上層の利益になるようにどこまでも極端化させていくかぎり資本主義の復活を用意していく。所有形態と分配基準の矛盾が無限につのっていくということはありえない。ブルジョア的な基準がなんらかの形で生産手段にもおよぶことになるか、逆に分配の基準が社会主義的所有に照応することになるかである。」『裏切られた革命』(1936年)
トロツキーは、状況を非常にはっきりと理解した。つまりソビエト・プロレタリアートによる政治革命が政治権力を簒奪した官僚カーストを打倒するか、それとも新しい所有階級に転化することによりその特権を保証しようとするなか、官僚がついには資本主義復活のための道を準備するか、どちらかであると。しかし一方では、外部の帝国主義による軍事的攻撃もしくは資本主義を復活しようとする国内の企てから労働者国家とソビエト労働者を無条件に防衛する事は、世界の全ての階級意識ある労働者の緊急の任務だった。しかし、ブルジョアによる反ソ主義の圧力に屈服し、官僚主義的な堕落にもかかわらず最初の労働者国家を無条件に防衛する革命的義務を放棄した者達がいた。彼等は、偽ってそうすることはスターリン主義を支持する事になると主張し寄生的官僚をソビエト労働者国家と同一視したのである。1934年トロツキーは次のように主張した。
「パリのわが友人たちの間に、ソ連邦のプロレタリア的性格を否定し、メンシェヴィキの合法化等を含むソ連邦での完全な民主化を要求する潮流があることを、われわれはさまざまな筋から知らされている。…
「メンシェヴィキは、ブルジョア復活派の代表であり、われわれはあらゆる可能な手段をあげて労働者国家を擁護する。誰であれ、ストの指導者がほとんど悪党だからという理由で、1928年のイギリス鉱夫のストや最近のアメリカでの大規模なストをわれわれは支持すべきでないと提案したとすれば、彼らはイギリスとアメリカの労働者にたいする裏切り者となるだろう。まったく同じことがソ連邦にもあてはまる。」トロツキー「ソ連論に妥協は無い」(1934年11月11日)
そしてトロツキーは警告する。「ソ連邦に対してその『非プロレタリア的』性格を理由としてむなしく手を振るだけの政治的傾向は、すべて帝国主義の道具となる危険を冒している。」(『ソビエト国家の階級的性格』、1933年10月)シャクトマン/クリフ/マットガムナのような見せかけの「社会主義者たち」は、単に消極的な手先以上のものになっている。
シャクトマン/クリフのわけのわからないおしゃべりとは鋭く異なって、トロツキーは、スターリン支配下のソ連邦の正確なマルクス主義的分析を進めた。彼は次のような考えを攻撃した。
「…今日のソビエト体制からは社会主義への移行しかありえないような誤った観念さえ呼びおこしかねない。実際には資本主義への後退も完全にありうるのである。」そして彼は次のように言及している。
「ソ連は資本主義と社会主義との中間にある、矛盾を含んだ社会である。そこでは、(1)生産力は国家的所有に社会主義的性格を付与するにはまだきわめて不充分である。(2)計画経済の無数の気孔から、欠乏によって生みだされる原始的蓄積への傾向が吹きだしている。(3)ブルジョア的性格を残している分配基準が新たな社会分化の根拠となっている。(4)経済成長は勤労者の境遇を徐々に改善しつつも、特権層の急速な形成を促進している。(5)官僚は社会的対立を利用して、無統制にして社会主義と無縁なカーストに転化した。(6)社会的変革は支配党によって裏切られたが、所有関係と勤労者の意識のうちになお生きている。(7)累積された矛盾がいっそう増大すると、社会主義に到達する可能性もあるが、資本主義へと後退する可能性もある。(8)資本主義へ向かう途上では反革命が労働者の抵抗を粉砕しなければならないであろう。(9)社会主義へ向かう途上では、労働者が官僚を打倒しなければならないであろう。究極的には問題は国内の戦場ならびに世界の戦場での生きた社会的勢力のあいだでのたたかいによって決せられる。」『裏切られた革命』
スターリニスト官僚は、労働者国家の社会化された基礎に寄生的にもたれかかっている不安定なカーストであり、時々その国家を防衛するのを余儀なくされた。この矛盾した性格は、CIAに支援された女性憎悪のイスラム反動家たちによる反乱に対しソ連がアフガニスタンに軍事介入するなかで、ブレジネフ政権の最後の数年においてさえ明らかだった。その矛盾した性格はまた、1984-85年のイギリス炭鉱夫によるストライキにたいするソ連の支援の問題をめぐっても反映していた。このストライキは、アンドレイ・グロムイコ外相のような古参のスターリニスト達によって支援され、クレムリン政権のナンバー2であるゴルバチョフのまわりにいるより若い分子に反対された。逆に、ソ連邦の実際の国境で帝国主義に譲歩したアフガニスタンからのソ連軍の撤退は、スターリニストが帝国主義に対してソ連邦自身を防衛するといういかなる意志もすぐに放棄するだろうと言う警告だった。
官僚の部分による社会化された財産に対するいかなる主観的なイデオロギー的言質に関係なく、堕落し歪曲された労働者国家における経済の運動法則は、資本主義下で作用するそれとは異っている。ソ連邦の工業マネージャーは、今日のロシア資本家と比較すると根本的に違った経済的命令に従った。たとえ彼等が偶然同じ人物であってもである。資本家の目的は利潤を最大限にすること、すなわち生産コストと市場価格の差を最大限にすることである。彼の将来の出世が左右されるソビエトの工場管理者の主要な目的は、製品の計画された産出量を最大限にすることだった。一方でしばしば、品質と多様性を犠牲にしていたが。従ってその体制は完全雇用を生み出した。実際ソビエトの企業は一般的に人員過剰だった。そして官僚の誤った管理や腐敗にもかかわらず、計画化された集産経済は、公衆医療、住宅、教育、保育、休暇を提供した。それは、唯一資本主義が収奪されたが故に可能だったのである。
示唆に富むことは、スターリニスト官僚が、支配階級とは違って、彼等の特権を正当化する新たなイデオロギーを精密に仕上げる事ができなかった点である。スターリンは、レーニンの全ての同志を殺害したが、「個人崇拝」による奇怪で殺人の絶頂時でさえも、レーニンの後継者と主張するのを止める事が決してできなかった。対照的に、ソ連邦における資本主義の復活は、資本主義イデオロギーを公然と受け入れることを伴った。共産主義は失敗した実験であり、市場の魔術は繁栄を意味し、スターリンはヒットラーより悪かった等々である。
世界の最も先進的な資本主義経済がソビエト経済よりも依然生産的である点を記しながら、トロツキーは、公然たる軍事的敵対行為よりも安い商品の力の方がソ連邦にとって結局危険となると述べた。著しく予言的である一方で、この見解は、社会主義は世界的な体制として建設されなければならないと言う基本的なマルクス主義の理解に基づいているに過ぎない。ウォール街の金融家、ドイツの産業家、日本の財閥が地球上の生産的富の殆んどを所有する限り、階級がなく国家のない社会という共産主義の未来像はどこにも実現することができない。トロツキーにとって、問題は、労働者が官僚制を打倒するか、それとも官僚制が労働者国家を食いつぶすかだった。この問題については抽象的なものは何もなかった。トロツキーは、スターリンによって殺害されるまで、ソ連邦と国際プロレタリアートを、十月革命の獲得物の防衛に、とくに新たな十月革命を通じた防衛に結集させようとすることに、彼の人生をささげた。
シャクトマンによる「官僚制集産主義」の起源と展開
ソ連邦に関するシャクトマンによる「新しい階級」理論の起源は、ソ連邦の無条件の軍事的防衛が重きをなした時、アメリカのトロツキスト運動の一部がそれを放棄したことにある。促進させたものは1939年のスターリン/ヒットラーによる条約だった。それは、プチ・ブルジョア「進歩派」に劇的な影響を与えた。彼らは、ルーズベルトによる「ニューディール」との人民戦線の蜜月の中で、彼ら自身をある意味でソ連邦の「友」とみなしていた。しかし一方で彼らは、実際にはアメリカ「民主主義」への根本的忠誠を維持していた。アメリカのトロツキスト党である社会主義労働者党(SWP)の指導委員会のメンバーだったマックス・シャクトマン、ジェームズ・バーナム、マーティン・アーバーンは、長年にわたるトロツキー主義の綱領であるソビエト防衛主義に挑戦するため、1939-40年に一緒になった。ヨーロッパでの戦争によって創り出された状況のために、アメリカ支部内の闘争が全体として第四インーナショナル内の闘争を代理するものとなった。
人生で最後の重要な分派闘争において、レオン・トロツキーは、シャクトマン派に対する反撃を指導した。後にSWPが『マルクス主義の擁護』として出版し一連の破壊的な論駁の中で、トロツキーは、スターリンによるヒットラーとの外交的軍事的同盟が『裏切られた革命』で分析した堕落したソビエト労働者国家の階級的性格を何ら変えないと主張した。トロツキーは、SWP内の少数派が、ソビエト防衛主義を放棄する中で、革命的マルクス主義自身の理論的基盤をいかに放棄したかを暴露した。彼は、フィンランドとポーランドにおいてソ連邦を軍事的に防衛する事がスターリニスト官僚制を政治的に支持する事になると言うアメリカの少数派による主張を嘲笑った。
ソビエト防衛主義は、トロツキスト運動内で絶えず起こる論争の源泉となっていた。1939-40年の闘争の中で、トロツキーは、過去においてなした主張を再び表明した。1929年に中国の東方鉄道を巡る論争で、中国からソ連邦を防衛するのを拒否した左翼反対派の人々に対して、この立場から一般的にソ連邦を「国家資本主義」だと宣言したフーゴ・ウルバーンスに対して、1937年にソビエト官僚は新しい支配階級になったと主張したイヴァン・クレポーに対して、また(スターリン/ヒットラー条約まで)集産化された財産と計画経済の防衛主義者と主張したが、ソ連邦はもはや労働者国家と見なされないと主張することによって、1937年に彼等の修正主義的進路を歩み始めたジェームズ・バーナムとジョー・カーターに対して。
シャクトマン派によるブルジョア世論の圧力への屈服こそ、彼らが第四インターナショナルの綱領から逃走した真の基盤だった。アメリカ・トロツキズムの創設者であるジェームズ・P・キャノンは、1939-40年の著作の中で、シャクトマン派の政策と彼等の歴史的ミリューと分裂していない党の動揺するプチ・ブルジョア層にある基盤との間のつながりを暴露した。このキャノンの著作は、後に『プロレタリア党のための闘争』として出版され、トロツキーによる『マルクス主義の擁護』への対になる本となった。実際に1939-40年の反キャノン・ブロックは、何らソビエト国家の性質の首尾一貫した分析を持たなかった。ジェームズ・バーナムは、すでに新しい形の階級社会としてソ連邦を見なすようになっていた。彼らは、あからさまに弁証法的唯物論を嘲笑い、数ヶ月の内にかつての分派同盟者とマルクス主義運動全体を放棄した。アーバーンと彼の派閥は、ソ連邦を堕落した労働者国家と見なすと主張したが、革命的綱領とか革命的原則の上に、キャノン「体制」に対する小さな組織的不平をいつも置くという長い歴史を持っていた。シャクトマンは、ソビエト国家に関する立場を持たないと主張し、いかなる場合でもこの問題が近い将来の「現実的」なものにとって重要ではないと言い張った。SWPのメンバーとしての最後の文書の一つの中で、彼は、もしソ連邦が実際帝国主義に侵略されそうになれば、ソ連邦を防衛するだろうと主張した。
反対派ブロックは、シャクトマンと他の人々が、労働者党(WP)を創立するためにSWPを脱党した1ヶ月以内にばらばらになった。バーナムはマルクス主義を非難し、ブルジョア学問の場へ逃亡した。そして『経営者革命』(1941年)を書き続け、その中でヒットラーのドイツとスターリンのロシアを新しい官僚階級社会の先駆者として同一視した。シャクトマンと彼の追随者(1947年の死まで派閥策動を続けたアーバーンと共に)はまた、彼等の最初のしりごみを一般化し続け、ソ連邦を新しい形の階級社会「官僚制集産主義」と性格づけた。
シャクトマンの少数派は、党の約40パーセントの支持とSWP青年組織の多数派、つまり800名を数えた。1940年の秋までにはWPは323名だけしかいないと主張した。これは「一時的反騰」効果を引き起こした。バーナムを先頭にしたより右翼的分子が、政治の分野から完全に退場するため、単にSWPからの分裂の機会を利用するなかで、初期の労働者党の重心は、最初のプチ・ブルジョア反対派の左へと移動した。第二次世界大戦の間、WPは左翼中間主義の組織であり、ソビエト防衛主義からの逃走を正当化するために全開した理論を探していた。
1941年6月に、ヒトラーがスターリンを突然攻撃し(トロツキーが予言したように)ソ連邦を侵略した時、WPの中でソ連邦を防衛するかどうかを巡って闘争が生じた。ロサンジェルスにおけるWP青年達の一握りの人々は、WPが侵略された場合にはソ連邦を防衛すると言うシャクトマンの初期の宣言を実行できなかった時に、SWPに戻った。ドイツとソ連邦との間の戦争における階級的中立というWPの立場は、その修正主義路線の強化に向けてもう一つの巨大な一歩を表した。
しかし1941年6月後の米ソ同盟は国内の反ソ主義を一時休止させ、「第三陣営」に比較的に左翼的体裁を許した。戦争産業の開始と共に、以前には常時失業していたプチ・ブルジョアのWP青年達は、産業の仕事を得る事ができるようになり、労働組合内の実際の要因となった。そして彼等は、ルーズベルト派労働組合官僚とスターリニスト共産党の社会愛国主義者と階級闘争による反対派としてSWPと競った。WPは、自分達を第四インターナショナルの支部と考えていた。戦争の終わりには、WPとSWPの間で失敗した「統一」交渉があった。
1948年に、シャクトマンは、決定的に第四インターナショナルに背を向けた。それは冷戦の開始と共に復活したブルジョア反ソ主義に直面して彼の急速な右への移動を反映していた。1949年には、労働者党はもはやアメリカ労働者階級の指導部になる事を望まず、その名前を独立社会主義同盟(ISL)に変えた。WP青年達の殆んどは、ずっと前から大学院やプチ・ブルジョア的出世のために労働組合を去っていた。第二次世界大戦中には、2万から2万5千の発行部数があったシャクトマングループの機関紙『レーバーアクション』は、1953年までには3千部強に急激に減少した。ISLは代理的な社会民主主義者だった。アトリーによる戦後のイギリスにおいて社会主義への平和的道の可能性を進め、労働党を組織するため自動車労働組合官僚ウォルター・ルーサーに圧力をかけようと試みた。しかしAFLとCIOの官僚は反共十字軍の前衛だった。1958年、アメリカ社会民主主義のくずへの解体の時までには、シャクトマングループは次のように宣言していた。「我々は、レーニン主義として知られあるいはレーニン主義と定義されたいかなる信条にも賛成しない。我々はトロツキー主義として知られあるいはトロツキー主義と定義されたいかなる信条にも賛成しない」(『ニュー・インターナショナル』、1953年春夏)彼等はすぐに分解し、そしてシャクトマンとその最も近い共鳴者達は、民主党の最も反共的な右翼の中のジョージ・ミニーのそばにいることで終わった。一方マイケル・ハリントンは民主党のよりリベラルな翼に引きつけられ、またハル・ドレーパーは、バークレーの新左翼の周辺をうろつき、アメリカISOの先駆者である独立社会主義者の創設を助けた。
「理論」に包まれた綱領
左翼の間では、初期の「官僚制集産主義」よりクリフ版の「国家資本主義」の方がよく知られている一方で、二つの理論の間の違いは根本的な内容より文脈の問題である。クリフ主義は、アメリカのシャクトマン主義にたいするイギリスでの類似物である。それは同一の政治的衝動と綱領に基礎を置き、異なった国家地域に表現されたものである。
クリフが、朝鮮戦争の間、帝国主義による冷戦攻撃の圧力に屈服した時、イギリス・トロツキスト運動は、すでにばらばらになり与党の労働党に埋没していた。それ故クリフの修正主義に対する闘いは、1940年の闘争がアメリカ・トロツキズムのためになしたようなプチ・ブルジョア的傾向とプロレタリア的傾向との間の明確な分極化を生じなかった。しかしクリフによる革命的マルクス主義との決裂は、ずっと綱領的に決定的なものだった。クリフは全ゆるソ連の経験に対してマイナスの符合を付けようとする意図をすでに宣言し、世界で最初の労働者国家の防衛を放棄することに向けた「国家資本主義」の理論的正当化を作り上げた。イギリスで活動し、「小英国」社会民主主義を通して調停されたブルジョア社会秩序に屈服するなか、クリフは、後のシャクトマンよりも左の格好を取る事ができる。
「理論」の水準に関して、クリフは、ソビエト官僚は新しい「官僚制集産主義」支配階級であると言う見解を拒否し、ソ連邦は単に資本主義の形態にすぎないと言うカウツキー派の概念を復活させた。理論家としてクリフの推定上の信用証明書は、彼による1955年の本『スターリニスト・ロシア : マルクス主義的分析』に基礎を置いている。この著作の中で、彼は、ソビエト官僚制の「国家資本主義的」性格を証明するため、いわゆる「マルクス主義的」経済分析を試みている。それはマルクス主義者にとって正確な意味がある用語(競争、蓄積、商品価値等々)を単純に著しく不正直に再定義する事によってなされている。クリフによると、「集団的」資本家階級(それ自体マルクス主義の基準では不合理)は、西側資本主義と軍事的に「競争」するため「利潤」を蓄積する事に駆られ、また価値法則に駆られた市場経済を一般化している。クリフはこの「理論」に合わせるようにするためソ連の現実に対して極端なねじ曲げをしなければならなかった。(「『国家資本主義』という反マルクス主義理論―トロツキー主義の批評」『ヤング・スパルタカス』51-53号、1977年2月、3月、4月を参照。古典的なマルクス主義経済の考察を通じて「国家資本主義」理論の誤った考えを討論するには、特にケン・ターバック著『国家資本主義理論―ぜんまい無しの時計』、イギリスの『マルクシスト・スタディーズ』第2巻1号、1969-70年冬で出版、スパルタシスト同盟/米国の『マルクシスト・スタディーズ』シリーズ5号として1973年7月に再版したものを参照。)
クリフと彼以前のシャクトマンの主張は、世界中で反共十字軍の運動から出世した社会民主主義者と同様に、あからさまな冷戦推進者としっかり歩調を合わせ、また彼らにとっての道を掃き清めた。我々が見たように、シャクトマンによるトロツキズムからの分裂の意味が反ソビエトであることが使い尽くされるのに、しばらく時間がかかった。1972年に死んだ時、シャクトマンは最後の10年間を純粋な社会愛国主義者として過ごした。そしてベトナム革命を血の海に沈めようとした米帝国主義の試みを支持さえしたのである。たぶん彼の最も具体的な帝国主義への奉仕は、アメリカ教員組合の官僚の顧問としてだったが、この組合は「AFL/CIA」労働組合主義の典型である。その組合主義はアメリカ国務省の片腕として活動し、第二次世界大戦後の西欧における戦闘的な左翼労働組合を粉砕した反共ギャングを支援し資金援助をした。また「ソ連ブロック」での反革命のために活動をするファシスト的な「囚われの諸民族」連中に「労働者階級」の装いを提供した。
本質的には、「官僚制集産主義」は形式的な三段論法に基礎を置いている。生産手段は国家に属している、国家は官僚に属する(すなわち官僚に支配される)、従って官僚は財産を「所有し」支配階級を構成する。しかし財産は諸個人に利益を与え続けるものであるために個人的に所有されねばならない―これが搾取の理解にとっての根本的な点である。「官僚制集産主義」はマルクス主義の真の基礎を取り除く。この基礎とは、資本主義社会にはプロレタリアートとブルジョアジーという二つの主要な階級が存在するという理解であり、こうした階級は生産手段にたいする関係によって規定されるという理解である。シャクトマンの理論は、生産手段の私的所有権によって規定されない新しい「官僚」支配階級の存在を仮定する。シャクトマンによれば、「官僚制集産主義」は、資本主義と社会主義双方と競い合う世界的に支配する生産様式になる可能性を持っていた。
シャクトマンの理論は彼の時代の産物だった。1930年代のアメリカでかなり広まっていたのは、大企業はもはや所有者には支配されているのではなくて経営者に支配されていると言う考えだった。この考えの有力な説明は、A・A・バーリとG・C・ミーンズによる『現代企業と私有財産』(1932年)だった。(もちろん、資本主義社会での所有権の重要性を考慮しないことが大恐慌によって多いに促進された。その時にはとにかくいかなる配当金も生み出されなかった)新しい経営エリートのこうした印象主義的な考え方は、シャクトマンのかつての理論家、ジェームズ・バーナムの著作である『経営者革命』に生命を吹き込んだ。
官僚制集産主義論は、富の私的な蓄積ではなく、実体の無い権力への欲望こそが人間の歴史の決定的な原動力であると仮定する。この観点の論理は深い歴史的悲観主義でもある。それは、革命的プロレタリアートが人類をその歴史的袋小路から導き出すのに必要とされる意識のいかなる可能性をももはや見ないと言う事である。1946年のエッセー『ジェームズ・バーナムと経営者革命』で、ジョージ・オーエルを言い換えるならバーナムの観点では人類の多数の運命が「永遠に圧制の下にある」と要約できる。この時期にトロツキスト運動を去った者の多くにとって、プロレタリア革命の展望に対する歴史的悲観主義は、「民主的」帝国主義との和解に導いた。トロツキーの以前の協力者ビクトル・セルジュと中国トロツキズムの創立者陳独秀は、彼等の絶望の論理に従って第二次世界大戦において「連合国」帝国主義者の陣営に入った。
マルクス主義者にとって、支配階級は生産手段の所有権によって定義された人々の層である。つまりそれは、イデオロギー、道徳やその欠如、権力への渇望、生活水準などによって主要に規定されない。問題は、ソ連の現実に軽蔑的な描写を与えることではなく、その運動法則と発展の方向性を分析する事である。初期の「国家資本主義」理論の提案者に反対して、トロツキーは次の様に記した。
「ソビエト官僚を『国家資本主義者』階級としてとらえようという試みは明らかに批判に耐ええない。官僚には株もなければ証券もない。官僚は官僚固有のなんらかの特殊な所有関係などというものとはかかわりなく、行政上の位階にしたがって徴募され、補充され、更迭される。個々の役人は国家機関の利用権を相続させることができない。官僚は権力の乱用という形で特権を行使する。官僚は自分の所得をかくす。官僚は特殊な社会集団としてはまったく存在していないかのようによそおう。官僚による国民所得の厖大な部分の着服は社会的寄生という性格をもつ。これらすべてのゆえに、ソ連の支配層の地位は権力の完璧さと追従の煙幕にもかかわらず、高度に矛盾に富んだ、表裏のある、不道徳的なものとなっている。」
そして次の様に続けた。
「大官僚には支配的な所有形態がいかなるものであるかはどうでもいいことで、それが必要な収入を保障してくれさえすればいいのだ、とする反論があるかもしれない。この議論は官僚の権利の不安定さを無視するばかりでなく、子どもの運命の問題も無視している。最近の家族崇拝は突如として空から降ってきたわけではない。特権は遺産として子どもに残せないとすれば半分の価値しかない。しかし遺言の権利は所有の権利と不可分である。トラストの長であるだけでは不充分で、株主となる必要がある。この決定的な分野での官僚の勝利は官僚が新しい有産階級へと転化することを意味するであろう。」『裏切られた革命』
シャクトマン/クリフ「理論」の破綻
全ての「新階級」理論は、そのソ連邦及び東欧の予測に関して、まやかしであることが判明した。官僚層は支配階級として振る舞うことができなかった。つまり、権力を掌握しているが、生産手段の私的所有にその権力基盤を持たない人間は、アルフレッド・クルップ、ヘンリー・フォード、ロックフェラー一族のように、あるいはウィリアム征服王のようにさえ行動できなかった。マットガムナは、シャクトマングループの著作に関する本のなかで、歴史的展開に対して、1950年代の東欧における労働者の反乱に対して、また1990-91年のスターリニズムの最終的崩壊に対して、シャクトマン理論をなんら評価しようとはしなかった。このことは本質的にマットガムナの著書が無益な試みであることを宣告するものである。
1956年のハンガリー革命という例だけを取っても、スターリニスト官僚が支配階級であるという見解を明確に反証している。憎悪されたラコシ政権に対して向けられた親社会主義的労働者による政治革命に直面するなか、官僚は完全に分裂し、80パーセントの共産党員が労働者革命の側に身を投じた。そして、ブダペスト警察長官ばかりか実際軍の全将校団までもが、労働者階級の動乱を鎮圧するのを拒絶した。かつて誰がこのように振る舞う支配階級を耳にしたであろうか?
1989-90年の東ドイツにおける初期のプロレタリア政治革命とその後のソ連邦において、われわれは(限られた)能力を最大限に駆使し、包囲しつつある反革命に抗して東ドイツとソビエトのプロレタリアートを動員するために闘った。そして最初に東欧の歪曲された労働者諸国家(最も重要なのは東ドイツ)、そしてそれからソ連邦自体を資本家に簡単に手渡し権力を投げだしたスターリンの後継者たちに反対して闘った。われわれが持ち込んだトロツキーの『裏切られた革命』を読んだソビエトとドイツの労働者の多くは、スターリニズム下での生活の記述が正にたった今書かれたかのようであるとわれわれに語った。官僚がその特権的地位を維持したいと願って導かれたスターリニスト・イデオロギーは、マルクス主義的用語の折衷的なごたまぜであり、それは「一国社会主義」、「平和的共存」、そして「進歩的」な国民と「反動的」な国民との間の闘争としての「反帝国主義」の規定といった完全な反マルクス主義綱領を粉飾するために利用された。スターリニストたちはマルクス主義を変質させ、弾圧によってアトム化した労働者階級を政治的に武装解除し、プロレタリア独裁のための唯一可能な長期的基盤、つまり自身の歴史的利益のために闘う階級意識ある労働者階級を破壊したのである。
トロツキーは、『裏切られた革命』のなかで、十月革命の獲得物の生き残りを、労働者国家の経済的基盤に結び付けただけではなく、ソビエト・プロレタリアートの意識にも結び付けた。 「十月革命は、支配階層によって裏切られてしまったが、いまだ打倒されてはいない。十月革命は、強大な抵抗力を有しており、また確立された所有関係と符合するとともに、プロレタリアートの生きた力、その最良分子の意識、世界資本主義の行き詰まり、そして世界革命の必然性とも合致している。」
シャクトマン/クリフ : 反共産主義対マルクス主義
『ロシア革命の運命、批判的マルクス主義の失われた原典第一巻』のなかで、シャクトマングループの理論の不安定さが長い間にいかに大きく変動してきたかを露呈している。このことは、「官僚制集産主義」が現実を理解し、かつ将来の展開を予見しようとするうえで役に立たなかったことを示している。シャクトマンは、1939-40年の分派闘争の間、最初、スターリニストがフィンランドとバルト諸国で資本主義的所有関係を覆そうとしないがゆえにソ連邦を防衛することができないと論じた。1948年までには、シャクトマンとその他の労働者党のイデオローグたちは、赤軍が東欧で資本主義的所有関係を覆しつつある(それによって恐らく新しい支配階級であることを示している)がゆえにソビエトを防衛することができないと論じていた。
シャクトマンは、もしソ連邦の集産的財産が帝国主義によって現実に脅かされた場合には革命家はこれを防衛すべきであると主張して、SWPを去った。そして1940年12月の『ニュー・インターナショナル』の数ページで、依然としてこうした主張を続けていた。ところが、1941年6月ヒトラーがソビエトに侵攻し、ソ連邦の防衛が実行段階になるや、シャクトマンは彼の論調を変え、ソ連邦は「民主的」帝国主義陣営と軍事的に同盟を結んでいるがゆえにソビエト防衛主義を容認できないと主張した。
シャクトマンは、オリジナルの「理論づけ」に着手するなか、1940年12月の「ロシアは労働者国家か?」において、ソ連邦は「官僚制国家社会主義」であると主張した。そして、革命家は、ソ連邦が集産化された「財産諸関係」を欠いていることを認める一方で、依然としてその集産化された「財産形態」を防衛すべきであると主張した。財産形態と財産関係との間のこうした全くもってみせかけの区別は、マルクス主義のいかなる基礎をも欠くものであり、ジョセフ・ハンセンから痛烈な批判を受けた(「バーナムの代理人はまた始める」、『第四インターナショナル』1941年2月)。ジョー・カーターもシャクトマンによって発明されたこの誤った二分法を攻撃した。マットガムナの著書は、カーターの記事「官僚制集産主義」(『ニュー・インターナショナル』1941年9月)を再録したが、シャクトマンへの攻撃は削除されている。
労働者党が、1941年12月、ソビエト官僚は充全に発達した「官僚制集産主義」支配階級であるという立場を採った時、彼らはトロツキーをまねて、スターリニスト支配はロシアに特有の現象であり、それは最初の労働者国家のゆがんだ孤立化によって生じたと論じ続けた。こうして彼らは、過去も未来も持たず、生産手段との何ら必要な関係も持たない支配階級、すなわち公的な「イデオロギー」が実際その存在そのものを否定する支配階級を仮定したのである。
第二次世界大戦末期に赤軍が東欧を占領するのにともない、労働者党はスターリニスト官僚主義が世界支配のために資本主義と競い合っていると主張し、官僚制集産主義は完全なスターリニスト恐怖症へと発展した。
「われわれの眼前に具体的にあるものは、ロシア国民だけでなくその他十数の民族や国々を抑圧し搾取する、それも最も残虐で野蛮な方法でそうする一人前の反動的な帝国としてのスターリニスト・ロシアの発展である…。
「(伝統的な改良主義的諸組織のように)スターリニスト諸党は資本家階級の代理人でありそれらは『ブルジョアジーに屈服している』という理論は、根本的に誤りである。それらはロシアの官僚制集産主義の代理人である。」「労働者党の決議」、『ニュー・インターナショナル』、1947年4月(『ロシア革命の運命』に再録)
トロツキーは、脆弱なスターリニスト官僚が第二次世界大戦によって必然的に引き起こされる労働者階級の高揚のなかで打倒されると期待した。ところが、改良主義のスターリニスト党と社会民主主義政党が大戦末期に労働者階級の闘争をそらせ、侵略する連合国軍が西ヨーロッパで再び資本主義支配を安定化するのを許した。東欧では、ナチスやナチと同盟した支配階級が逃亡した後、赤軍の占領は息つく場所を与えた。連合国の帝国主義者たちがかつての同盟者に対し一転して敵対し、冷戦が開始されるなかで、スターリンによる東欧の歪曲された労働者諸国家の創設が、軍事/安全保障の懸念から命じられた。また、ユーゴスラビアと1949年の中国では、共産党指導勢力による土着の農民を基盤とした革命が、また、新たな歪曲された労働者国家を創り出した。
マットガムナがその著書で誇らしげに披露するシャクトマンの著作は、冷戦の反共産主義にどっぷりと染まっている。そのことは、例えば「スターリニズムは奴隷労働収容所に『最も端的に』示されている」(マットガムナによって出版されたルイス・ジェイコブス[ジャック・ウェーバー]の1947年7月の記事より)という主張から明らかである。あるいはまた、「奴隷労働はスターリニスト体制の偶然的または表面的にできたこぶではない。それは不可欠なものであり、内在的なものであり、代用不可能なものである」(マットガムナが再録しない『ニュー・インターナショナル』の1947年12月所収の記事より)といった主張からも明白である。経済的搾取ではなく政治的抑圧を意図としたスターリニストによる強制労働収容所は、労働者を低賃金で自発的に行かせることができないシベリアその他の地域における強制労働システムを形成した。しかし、こうした手段はいかなる技能や訓練を必要とする労働とも相容れないものであった。そしてこの手段は、ソビエト経済にとって「代用不可能である」と判明するどころか、スターリンの死後に続いた自由化のなかで、より合理的な形の財政上の動機にとって代わられた。反対に、資本主義反革命は、シベリア住民を余剰人口として政治経済の埒外に置き去りにし、飢えや病気や寒さによって死ぬにまかせた。
堕落したソビエト労働者国家がスターリンの後継者たちによって最終的に破壊された時、その過程はトロツキーの予見に見事に一致する仕方で展開した。例えば、1936年にトロツキーは次のように述べている。
「ブルジョア社会は途上でみずからの社会的基盤は変えずに、多くの政治体制や官僚カーストをいれかえた。ブルジョア社会はみずからの生産方法の優位性によって農奴性的および同業組合的諸関係の復活を防いだ。国家権力が資本主義の発達を促進したり防げたりすることもありえたが、全体としては生産力は私的所有と競争をもとにしてみずから道を切り開いた。それに反して、社会主義革命から生まれ出た所有関係はそのにない手である新しい国家と不可分に結びついている。…
「ソビェト体制が崩壊すれば不可避的に計画経済が崩壊し、そしてまさにそのことによって国家的所有が廃絶されることになるであろう。トラストとトラスト内の工場とのあいだの強制的な結びつきは絶たれてしまうであろう。もっとも成績のいい企業は自立の道へと急ぐであろう。それは株式会社に転化するか、あるいは他の過渡的な所有形態―たとえば労働者に利益をもたらすような―を見いだすかするかもしれない。時を同じくして、そしてもっと簡単にコルホーズが解体するであろう。このように、現在の官僚独裁が瓦解したとしても、それが新たな社会主義権力といれかわるのでないとすれば、それは経済と文化の破局的な衰退のもとでの資本主義的諸関係への復帰を意味することになるであろう。」『裏切られた革命』
スターリニズム : 革命の墓堀人、労働者国家の墓堀人
何十年かにわたる経過を経て現出したスターリニズムの解体は、スターリニストによるプロレタリア意識の破壊の場合と同様に、世代的要素の積み重ねによるところが大きかった。テロと偽りに彩られた体制は、勤労者大衆のあいだの社会主義的理想主義を根絶するうえで大いに寄与した。「一国社会主義」理論から出発したスターリンは、民族主義イデオロギーを国家にたいする忠誠の基盤として推し進めた。ロシア民族主義はヒトラーに対して第二次世界大戦に勝利するソ連邦の手段であった(これはスターリンの血の粛清によって意気消沈したソ連軍の最初の崩壊後のことであり、それはナチスに広大な領土を蹂躙された)。
1953年にスターリンが死んだ後、ソビエト官僚は大規模なテロを政治的反対派や経済的犯罪行為に対する武器としてもはや用いることができなくなった。ソ連邦と東欧の経済状態が大戦の荒廃から回復しつつあるというなかで、スターリニスト体制を脅かした東ドイツ、ハンガリー、ポーランドにおける一連の親社会主義的な労働者蜂起や抗議を経た後、フルシチョフ時代は、消費財の拡大生産政策と労働者の生活水準の全般的向上によって際立っていた。ブレジネフ時代の大規模な腐敗は、国民の間に残っていた平等主義の価値をはなはだしく蝕んだ。ゴルバ チョフに例証される官僚の次世代は、ソビエト社会における特権階層の増大する重みを反映した。その特権階層は、官僚の子弟やテクノクラートたち、そして同様な収入レベルのハー バード・ビジネススクール出身の反対陣営連中と西側の諸都市で親しく交際したいと熱望するヤッピー気取りの者たちから成っていた。この階層は、ソビエト経済を再生させる唯一の手段として正当化された「市場社会主義」(労働者民主主義はもちろん選択肢にはなかった)の実験で現われるなかで、ほとんど内部的な抵抗なしにスターリニズムのイデオロ ギーを完全にお払い箱にした。つまり「社会主義」は失敗した、資本主義万歳というわけである。ゴルバチョフが「五百日の資本主義」ショック療法を押し進めることができないと判明した時、彼はいっそう無慈悲な元スターリニスト官僚エリツィンに取って代わられた。そのエリツィンは熱心にソ連を米帝国主義に売り渡そうとしたのである。
ロシアの反革命の中心的出来事は、ばかげたスターリニストのおちぶれものによる「ペレストロイカ・クーデター」に対するエリツィンの1991年8月の「反クーデター」である。事実上すべての反ソ連の似非トロツキストたちは、公然とエリツィンを歓迎するか、あるいはソビエトの堕落した労働者国家は今まさに死んだと宣言する機会をとらえた。ただ国際共産主義者同盟(ICL)だ けが、資本主義復活を打倒する政治革命に立ち上がるためソ連邦の労働者たちを結集しようと努めた。ICLは「ソビエト労働者よ、エリツィンとブッシュの反革命を打倒せよ !」という記事をソビエト中に大量配布した。エリツィンが「民主主義」 に向けて帝国主義に支持された権力奪取を打ち固めたことは、侵入する資本主義反革命に対する労働者階級の大規模な抵抗が無いなかで、堕落した労働者国家が最終的に破壊されたことを意味した。
エリツィンの反革命は、東欧では「市場社会主義」として、またロシアでは「ペレストロイカ」(改革)として知られる経済策の導入によって準備された。チトーがユーゴスラビアで企てた市場志向の「改革」が、ゴルバチョフによるペレストロイカの先駆けであった。この経済政策の特徴は、中央集権的な計画を後退させ、企業間関係をおおむね市場の力に委ねるという点にあった。地域的な線に基づく分解は、外国貿易の国家独占の廃止と密接に関わっていた。そしてより富裕な共和国が市場の力によって確立された交易条件によって恩恵を蒙るなかで、こうした分解は、ユーゴスラビアやソ連邦のような国々の多民族的性格を崩壊させる強力な圧力を生んだ。特に多くの資本もないことを考えると、こうした経済的要因は、反動的な民族主義イデオロギーを大いに煽りたて、民族主義は、旧ソ連や旧ソ連圏で資本主義復活に向けた主要な武器として用いられた。そしてバルカン諸国や他の地域ではおぞましい全面的な「民族浄化」へと一直線に導いた。
スパルタシストは、この時期を通じた宣伝のなかで、「市場社会主義」政策が及ぼす反平等主義の影響について警鐘を鳴らした。それは、国際金融資本が歪曲された労働者諸国家の経済に浸透することを許すという大きな危険、そしてまたこうした労働者国家内での民族間対立を増大させる途方もない危険についてであった。われわれは、1981年のパンフレット『連帯 : CIA と銀行家のためのポーランド御用組合』のなかで、ポーランドのプロレタリアートの歴史的な社会主義意識が破壊されたのはスターリニストの責任であると主張した。われわれの分析と予測は諸事件によってはっきりと確証された。しかしいくら強調してもしすぎることはないのは、われわれの目的は単に分析することだけでなく、社会主義意識のために闘うわれわれの革命的綱領で介入し、国内国外の完全な敵から十月革命の残存する獲得物を防衛するためソビエトと東欧の労働者を結集することであった。
われわれは、1988年7月に発行した『東欧における「市場社会主義」』に関するパンフレットで、次のように説明した。
「『市場社会主義』という綱領は、基本的に、リベラルなスターリニズムの産物である。企業の自主管理や自主的資金調達は経済的な渾沌へと導く道である。それは、失業とインフレを引き起こし、労働者階級内部と社会全体に不平等を拡大する。また国際的な銀行家への依存を創り出し、民族的な分裂や対立を激化させ、内部の資本主義復活勢力を大いに強化する…。
「民族問題は『自主管理』という政治の中心になってきた。より大きな脱中央集権化のための社会的 圧力は、下から、職場の労働者からではなく、より富裕な共和国であるクロア チアやスロヴェニアの官僚から出てきている。地方自治への権限委譲の経済的影響によって、最貧地域、とりわけユーゴスラビア内でアルバニア民族が集中するコソボでは、激しい民族的憤激が噴きだしている…。
「1960年代の脱中央集権化政策はまた、ユーゴスラビア経済が世界資本主義市場と相互に影響し合う仕方を劇的に変化させた。1967年、諸企業は自らが獲得した外貨の一部保有を認められた。それ以来、外貨の奪い合いは地域や民族それに企業間の対立の主な火種となり、時々露骨な経済戦争へと至らしめた…。
「スターリニスト体制には、以下のような主要要素をともなう経済機構のため中央計画を放棄する内在的傾向が存在する。企業間でのアトム化した競争を通じて決定された生産高と価格。企業の利益に付随した投資と経営管理者給料と労働者賃金。利益の上がらない企業を閉鎖すること。これは失業を招く。価格助成金を削減すること。これはより高いインフレ率を招く。サービス業部門で小資本企業家の役割の増大。合弁事業を含む西洋と日本の資本主義との商業上、金融上の関係強化の奨励。こうした方策は、多くの西洋ブルジョ ア解説者や混乱した相当数の左翼らが言い張っているように、資本主義がゆるやかに浸透していくということにはならない。そうではなく、それらは内部の資本主義反革命勢力を実際強化する…。
「従って、スターリニズム枠内で、中央の計画化や管理を市場メカニズ ムに置き換える内在的傾向が存在する。経営者や労働者がソビエト民主主義(労働者評議会)の規律に従属させることができないため、益々官僚は、経済関係者を市場競争の規律に委ねることが経済的非効率への唯一の回答であると見なしている。ソ連邦における労働者民主主義の復活は、単なる抽象的理想ではなく、社会主義を基盤としてソビエト経済を再生するための必須条件なのである。」
もしかりにソ連邦で革命的労働者政権が復活していたならば、その政権は世界帝国主義の要塞へと革命を拡大するために闘っただろう。それは社会主義のために必要な基礎条件である。
左翼反対派の経済綱領
新経済政策(ネップ)は、内戦の荒廃の後、産業が崩壊し全く混乱した状態にあった後進的で圧倒的な農民経済のもとで、ボリシェビキによって着手された一時的退却措置だった。レーニンによる直接的な指針のもとに作成された初期のネップ立法は、農作物の自由交易は許可したが、労働者の雇用と土地の取得を厳しく制限した。しかしながら、一時的退却として開始したこの措置は、後にブハーリンとスターリンによって農民の階級利益を反映する継続的政策へと変更させられた。1925年、諸制限は農業資本主義を助長する方向で大幅に緩和され た。クラークや「ネップマン」たちは党に歓迎された。そこで彼らは今や優勢な官僚の重要な一翼となった。
ゴルバチョフ下のロシアにおける「市場社会主義」の擁護者は、1920年代中後期のネップを愛慕の情を込めて回顧するものであって、そのイデオロギー的代表者はニコライ・ブハーリンであった。そしてその主な実行者は当時ブハーリンのブロックパートナーであったヨセフ・スターリンである。ブハーリンは農民に「富め!」と熱心に説き、社会主義が「亀の歩みで」進むだろうと言明した。彼は、ソ連邦の工業生産の拡大が工業生産物にたいする小自作農の市場需要によって決定されるべきであると主張した。
E・A・プレオブラジェンスキーは、1922年の著作『ネップから社会主義へ』のなかで、 ソビエトの工業基盤の拡張のための財源を構築するために「社会主義的原始蓄積」の必要性を述べた。そのプレオブラジェンスキーが支持したトロツキーの左翼反対派は、急速な工業化と中央計画化が必要であると主張した。トロツキーは、1923年4月に、第12回党大会で提出した『工業に関するテーゼ』において、「鋏状価格差の危機」という現象(農業生産物と交換するだけの十分な工業生産物が欠如しているために、農民が都市へ食料品放出を差し控えるようになる)を指摘した。そして1925年には、「もし国有工業の発展が農業の発展よりも立ち遅れるならば…こうした過程は当然ながら資本主義の復活へと導くであろう」(『ロシアは何処へ?』)と警告した。
歴史家アレグザンダー・アーリックは、その古典的著作『ソビエトの工業化に関する議論、 1927年〜28年』(1980年刊)のなかで、党の議論について詳述している。左翼反対派は、ブハーリン/スターリンの政策に反対し、工業化の資金を調達するためにクラー クへの税金を引き上げるよう呼びかけ、「このもっとも数の多い農民集団(中農)を、大規模で機械化された集団農業のもたらす恩恵へと組織的、段階的に引き入れる」(『反対派綱領』、1927年刊)よう訴えた。左翼反対派が工業化のテンポを速めるよう主張したのは、「鋏状価格差の危機」を取り除くためばかりでなく、最も重要なこととして、プロレタリアートの社会的影響力を増大させるためであった。
ブハーリンの政策はソ連邦内の社会的反革命勢力を勢いづかせた。クラークを「富裕化する」政策は当然ながら、貧農が実質的に革命前の物納小作農の身分となるなかで、農村部における階級差別の悪化を招いたばかりでなく、クラークによる都市部への恐喝をも惹起した。その一方で、ネップマンたちは力を増大し続けていた。1926年末の時点で、全工業労働力の約60パーセントが、供給や流通を牛耳る小資本家の支配の下、私的所有の小規模工業で働いていた。1928年までには、クラークは穀物ストライキを組織して、都市部を飢餓の危険に晒すばかりか労働者国家そのものの経済的基盤をも堀り崩しかねないようになっていた。
スターリンは、1924年に権力を横奪した保守的官僚層の指導者であった。彼は、 労働者国家の所有形態に基づいて現われた自分の体制の将来を恐れた。資本主義復活は、官僚制の権力及び特権基盤に対する脅威であって、選択可能なものではなかった。クラークの支配力を打ち破り強行軍の工業化を始めるには、スターリンは、無計画で構想の誤った残虐な強制集産化政策で突き進むという方策しか思いつかなかった。そして、自らの方法でまた自らの理由によりソビエト国家の労働者階級基盤を維持しようとするなか、スターリンは、彼がかつて激しく反対していた急速な工業発展を主張する左翼反対派の綱領の重要な側面を採用せざるをえなかった。その結果、スターリンはブハーリンとのブロックを解消した。ブハーリンの経済政策は、堕落した労働者国家の完全なる社会転覆へと直接導きつつあった。(ブハーリンとその追放され た支持者たちは右翼反対派として国際的に知られるようになった)。
こうした諸事件に照らしてみると、クリフとマットガムナがそれぞれ自分たちの「新支配階級」(つまり資本主義復活)の優勢をこの時期に定めていることは意味深い。しかし、1928年にスターリンによるクラークの弾圧が資本主義の復活をはっきりと妨げていることから、彼ら二人の念頭にある真の相手は、右からスターリニスト官僚制に反対したブハーリンとその支持者たちなのである。従って、クリフとマットガムナは始めからトロツキーの国際左翼反対派とその無条件の防衛主義の綱領の外に身を置き、かつそれに反対する立場を取っていた。
今日、歪曲された労働者国家の枠組の内部で強力な資本主義復活主義の経済勢力の成長は、チトーのユーゴスラビアかゴルバチョフのロシアで見られたよりも、中国において現在すでにはるかに進行している。中国革命の社会的獲得物の多くは、失業が膨大な規模に達するなかで、消滅しつつある。一方では、国有工場は閉鎖されるかあるいは民営化され、外国貿易の国家独占は堀り崩されている。中国の官僚たち自身が「経済特区」で外国資本家との合弁事業に主に携わっている。しかし、中国官僚は、同国のプロレタリアートの抵抗を打ち破ることなくして、その後退的な願望を十分に実行することができない。いまふたたび二者択一の選択が提起される。つまり、社会化された国家の経済基盤を防衛するためにプロレタリア政治革命か、それとも帝国主義に支援された資本主義反革命かである。
付記 : ショーン・マットガムナ、シャクトマンの亜流
ショーン・マットガムナはスターリニスト共産党の党員として政治生活を始めたように見えるが、しかし1959年に彼は故ゲーリー・ヒーリーよって擁護された似非トロツキズムに引き寄せられた。1956年のハンガリー労働者蜂起の後、ヒーリーの組織は、堕落した労働者国家と歪曲された労働者国家の反資本主義の獲得物を防衛するプロレタリア政治革命というトロツキズム綱領を擁護することで、あらゆる層の共産党カードルを獲得した。労働党への深い加入から現われるなかで、ヒーリーグループは、1950年代終わりから60年代初めに、『レイバー・レヴュー』といった雑誌のなかでマルクス主義の文献や歴史に関する印象的な著作上の正統性と展望を示した。 しかしながら、その基盤を成していたのは根本的に政治的山賊行為だけであり、それは内部の官僚主義的行いで最初に露呈した。マットガムナは1963年にヒーリーによって除名された。しかし彼は一年後にヒーリーと政治的に分裂するが、その時ヒーリーの組織が労働党へのいかなる加入活動をも放棄した。それ以降 20年間に亘り、マット ガムナは、テッド・グラントのミリタント・テンデンシーからトニー・クリフの国際社会主義者、パブロ主義者、労働者の権力に至るまで、イギリスにおいてトロツキズムの衣を主張するほとんどあらゆる他のテンデンシーに加入し、またそれらと合同したりもて遊んだりした。
1979年、アフガニスタンへの赤軍の介入をめぐる帝国主義者の激しい非難のさなか、国際共産主義者同盟として組織されたマットガムナのテンデンシーは、ソ連邦の軍事的防衛に向けた名ばかりの立場を放棄した。そして、限定的な土地改革を求めまた女性の読み書きを教えようと努める左翼民族主義政府のソ連邦による防衛の結果は、「無条件に反動的」であると主張した。それに続く第二次冷戦下の反共ヒステリーの間、依然として労働党に深くはまり込んだままのマットガムナグループは、反社会主義で反ユダヤ主義のポーランド連帯を支持して帝国主義者と賛同の叫び声を張り上げ、ドイツの資本主義再統一を支持し、1990年から91年にソ連邦と東欧の歪曲された労働者諸国家を破壊した反革命を歓迎した。
今日、労働者の自由のための同盟(AWL)と現在呼ばれているマットガムナのテンデンシーは、労働党、実際には新労働党にいまだはまり込んでいる。この新労働党を、トニー・ブレアは、労働組合との歴史的絆を断ちきることで資本主義政党として改造しようとしている。AWLは、良き労働党員として、「労働者階級」を「自国」帝国主義に卑劣な忠誠を誓わせようとする連中と同じ立場に身を置いて いる。このことは北アイルランドでもっともはっきりと露呈されている。北アイルランドでは、マットガムナグループは(現在社会党と呼ばれているタフィのミリタント・レイバーと共に)、進歩統一党(PUP)の指導者ビリー・ハッチンソンのような英帝国主義のファシスト的英国帰属支持者の殺し屋どもをおぞましくも大のお気に入りにしていることで悪名高い。AWLは、残虐なアルスター義勇軍(UVF)の看板役であるPUPをプロテスタント労働者階級の正当な代表者であると忌まわしくも描き出し、ハッチンソンを自分たちの催しに講演者として招き、彼らの雑誌に論説の場を提供したのである。またAWLによる1995年のサマースクールは、アルス ター統一党の「防衛」スポークスマンであり王立アルスター警察隊の雇われ顧問であるケン・マギニスとの「討論」を呼び物とした。いうまでもなく、AWLは、イギリス軍の北アイルランドからの即時撤退を呼びかけることを拒否している。彼らは、イギリス軍が、オレンジ党主権の不可欠な武力の一部ではなく、カトリックとプロテス タント両地域住民間のある種の中立的な仲裁者であるという帝国主義者の嘘をおうむ返しに繰り返している。
NATOのセルビアに対する戦争は、第二次世界大戦以来ヨーロッパで最初の大規模な戦争であったが、この戦争の勃発にともない、AWLは、イギリスの全ての似非左翼の趨勢のなかで心地よく振る舞った。こうした似非左翼たちは、卑屈にもブレアの新労働党の資本主義政府を支持し、NATOによるセルビアへのテロ空爆とNATO帝国主義の操り人形であるコソボ解放軍(UCK)とを積極的に支援するこの政府の姿勢を支持したのである。AWLは英米率いるNATOの戦争に献身的なあまり、「戦争阻止」 のデモで自らの立場を粉飾するといったことさえなかった。それどころか彼らは、NATO空爆を全面的に支持する1999年4月10日ロンドンでのコソボ・デモのために実際動員をかけた。当初から、トニー・ブレアでさえ躊躇していた時、マットガムナは地上軍の投入を呼びかけた。「もしNATO軍上陸がコソボに対するセルビアの大量殺戮攻勢を阻止するならば、それは喜ばしいことだ…セルビア・ ユーゴスラビアによる大量殺戮の帝国主義を支持するか無関心でいるのでない限り、 社会主義者は一方的にNATOと米国を非難することなどできない」(「社会主義者の諸問題」、『連帯のための行動』、1999年4月2日)。今日AWLは、戦時において「コソボ独立」に賛成したいかなる美辞麗句にもかかわらず、コソボが主要なNATOの帝国主義列強に軍事的に占領されるということにたいして当然ながら異論はない。この事態は当初からNATOが抱いていた目論みだった。
1970年代における政治的具体化のほとんどを通じて、名ばかりのソビエト防衛主義者であるショーン・マットガムナは、ソ連問題が真のイギリス「トロツキズ ム」にとってはどうでもよい「最も重要性の低い問題」であると主張して きた。その真のイギリス「トロツキズム」とは、彼がゲーリー・ヒーリーやテッド・ グラントの下で学んだように、「労働党左派を闘争させる」ことであった。しかし、ソ連問題は重要ではないという幻想が可能だったのは、「緊張緩和」の束の間の間だけだった。この時米帝国主義がベトナムの労働者と農民の手で敗 北を喫し力を弱め、攻勢に転じるまでしばらく時間稼ぎが必要だった。1979年、米帝国主義のカーター政権が、アフガニスタンで現代化を進める左翼民族主義政府を防衛するソ連の軍事介入を捕え、第二次冷戦の幕開けを画する反ソ「人権十字軍」を開始した時、実質上全ての似非左翼テンデンシーが 、血に飢えたイスラム民兵やそのCIAの後ろ盾の側で優勢な反ソ運動に身を 投じるなか、マットガムナは息せき切ってその行列に加わった。突然、ソビエト防衛という「最も重要性の低い」問題は、イギリスと世界の帝国主義へ忠誠の誓いをたてる中心問題となった。
全面的にブルジョアジーの反ソ主義に屈するなか、1988年には、マットガムナの組織は、ス ターリニズムは官僚が「官僚制国家独占の支配階級」を構成する新形態の階級社会を意味するという立場を取った。資本主義とプロレタリアート独裁との間に立つ新形態の階級社会という見解は、本質的にはシャクトマンによる「官僚制集産主義」を言い換えたものだった。それが「小英国」労働党主義の反共主義になると、マットガムナはクリフよりもはるかに熱狂的である。マットガムナはシャクトマンを復活させるが、それは彼がクリフのSWPと理論的レベルで自分との違いを際立たせる必要があるからである。そのSWPは、マットガムナが憧れている似非トロツキスト改良主義をイギリスで牛耳っている。マットガムナはま た、社会愛国主義にあまりにも進んでしまっているので、もはやシャクトマンのおぞましい結末によって気を挫かれることもない。
もちろん、『ロシア革命の運命: :批判的マルクス主義の失われた原典』の数ページから現われ出るシャクトマンは、今日「共産主義の死」の左翼に形づくられている。本当のシャクトマンは、はっきりしない人物だった。彼は初期の共産党のメンバーであり、SWPの創立指導者の一員であった。トロツキズムと分裂した後、彼はわれわれの階級敵に奉仕するようになった。
われわれがすでに見たように、シャクトマンは、キャノンのSWPと分裂した直後の時期に、むしろ中間主義者のようであった。彼は、時々トロツキスト運動内の理論的諸問題や尻込みを左から正しく批 判した。われわれのテンデンシーは、自身の運動の歴史を常に批判的に考察し、労働者党がSWPに反対して誤りを正した時、そうした事例を承認しそこから学んできた。一例を挙げれば、米国が第二次世界大戦時に中国で日本帝国主義に対する闘いを直接指揮した時、それまで支持ができた蒋介石率いる国民軍の反植民地闘争が、連合国帝国主義の戦争努力に従属するものに化したのを、SWPは決して理解できなかったことである。
真のトロツキストにとってとりわけ重要なのは、「プロレタリア軍事政策」(PMP)にたいするシャクトマングループの痛烈な批判である。トロツキー自身が大いに責任を負っ ているPMPは、資本主義国家の階級的性格という根本的問題に関するマルクス主義の深刻な修正を意味した。PMPはマルクス主義から決定的に離反するシャクトマンの領域を含んでいなかったため、1940年から41年に彼は、キャノンとSWPに対していくつかの点で正当に非難することができた(1941年1月、『ニュー・インターナショナル』に初めて発表されたシャクトマンの論駁、「戦時と平和時における労働者階級の政策」を特に参照。「プロメテウス・リサーチ・シリーズ」二号、 『「プロレタリア軍事政策」に関する文書』、1989年2月、ICLアメリカ支部中央委員会公文書より刊行に再録)。
PMPは、1940年、晩年の数ヶ月にトロツキーによって初めて提案された。ヨーロッパではすでに第二次世界大戦が始まっており、残忍な空中戦がイギリスで繰り広げられていた。しかしアメリカは、参戦するのが明らかだったが、いまだそうしていなかった。PMPは、労働者階級の根深い反ファシズム感情と資本主義打倒という革命的綱領との間に橋をかけようとする性急で誤って指導された試みだった。それはブルジョア軍隊のための軍事訓練を労働組合が統制することに向けた一連の要求から成っていた。こうした要求は、アメリカのSWPや特にイギリス労働者国際同盟(WIL)が大戦初期に掲げた宣伝に目立ったものである。PMPの一貫した主張は改良主義である。つまり、PMPは、労働者階級が資本主義国家の中核を統制することが可能であるということを意味したのである。それは、あらゆる帝国主義の戦闘員にたいする、それもとりわけ自国の「主要な敵」にたいする革命的敗北主義というトロツキスト綱領 に反するものであった。「反ファシズム」が英米側の主なイデオロギー的口実であった帝国主義間戦争のなかで、シャクトマンが指摘しているように、PMPは容易に社会愛国主義に覆われてしまった。
米国では、SWPとミネアポリス全米トラック運転手組合の指導者18人が、帝国主義戦争に反対したために政府より起訴され投獄された。しかし、彼らによるPMPの主張は、その革命的敗北主義の宣伝の質を実際に幾分変化させた。一方、ドイツ軍による本土侵攻の脅威が切実な現実味を帯びていたイギリスでは、WILは完全なる社会愛国主義へと進んだ。彼らは最初「労働者を武装せよ」というスローガンを掲げ、そして国土防衛軍の防衛部隊に寛大さを示したのである。WILの宣伝は、戦時での生産の「混乱」を収拾するために「労働者の生産管理」を呼びかけた。1942年、テッド・グラントは、北アフリカにおいてイギリス第八軍の勝利に満足し、その軍を「われらが」軍隊であると歓迎したのである。1943年に連合国陣営の勝利が明らかになった時、やっとPMPは実際米英両国で死文と化した。
マットガムナがマックス・シャクトマンに同意しない唯一の領域は、第二次世界大戦においてシャクトマンによる正統なトロツキストの左派的批判である。マットガムナはPMPを支持し、蒋介石の軍隊が連合国の戦争努力に従属するようになった後でさえ、蒋介石への軍事的支持を主張する。一貫した修正主義者であるマットガムナはずっと先に進み、「少なくともイギリスとフランスのために」公然と社会愛国主義を主張する。
「アメリカのSWPやイギリスのWIL/RCPによって詳述されているように、プロレタリアの戦時政策は、論理的には結局革命的防衛主義の政策になる混乱したごまかしだった。革命的防衛主義とは、革命家が戦争の遂行を望むが、しかしそのために支配階級になるための闘争を弱めないという意味である。これがトロツキストあるいはほとんどのトロツキストが主張しているのものである。英独がともに帝国主義者であるという理由でこれを拒絶することはあまりに観念的すぎる。」(『労働者の自由』、1999年6/7月)。
ここでマットガムナは、第一次大戦と同様に第二次大戦が実際に競合する帝国主義同盟間の戦争であったにもかかわらず、それが「ファシズム」に対する「民主主義」の戦争であるという当時のブルジョア宣伝をずうずうしくも繰り返している。彼は、自分がPMPを支持するのは正にそれが連合国側のブルジョアジーの防衛者であることを十分よく承知しており、またそのことを20分に明らかにしている。従って、マットガムナにとっては、ナチス・ドイツからソ連邦を防衛する基礎などなく、イギリスとフランスを防衛するのが正当であった! なんという完璧な反ソ社会排外主義の要約であろうか。 この場合、反ソ社会排外主義は、実際彼をウィンストン・チャーチルの右に位置付けている。マットガムナは、過去にさかのぼり第二次世界大戦において社会愛国主義と協力するなかで、1945年以来ヨーロッパでの初の戦争においてNATO支持のために主張されているように、英帝国主義に対する彼の現在の卑劣な屈服のための歴史的な支持を見つけ出しているのである。
シャクトマンによるスターリン恐怖症が米帝国主義者によって導かれた冷戦へのかけ橋だったように、イギリスでのPMPは労働党改良主義の左派や議会クレチン病との和解に道を開くものであった。イギリスのトロツキストたちは、自分たちの革命的性格が実際上むしばまれたが、戦後における大規模な労働者階級の不安を封じ込めるために就任したメイジャー・アトリーの資本主義労働党政府への幻想に立ち向 かうことができなかった。1949年までに、イギリスの似非トロツキズムのあらゆる翼は、労働党へ自らを解党させてしまった。
イギリスの似非トロツキズムの根底に横たわる労働党主義の社会民主主義的基盤は、ポーランドの資本主義反革命に味方するバチカンとウォール街の御用組合である連帯にたいするその熱狂で十分示された。1983年9月、TUCの年次大会の期間中に、ゲーリー・ヒーリーは、彼が発行する『ニューズ・ ライン』で、アーサー・スカーギルについてのうわべだけの「暴露記事」を発表した。その記事は、正当にも連帯を反社会主義的であると非難するスカーギルの手紙に基づいていた。これはスカーギルをTUC上層部とブルジョア新聞による狂乱的赤狩りの標的にした。そしてこのやり口は、1984年から85年の英雄的な鉱山労働者ストライキの前夜に、炭鉱労働者組合を孤立させるために利用された。従ってヒーリーグループは、マーガレット・サッチャーが鉱山労働者を粉砕しイギリス労働運動の屋台骨を挫くための運動を展開するうえで、彼女に多大な貢献をすることになったのである。ヒーリーからクリフ、マットガムナ、パブロ主義の統一書記局派グループに至る全てのイギリス似非トロツキズムの山師達は、連帯がポーランド労働者階級の真の代弁者であるとして一致協力して歓迎した。彼らが連帯を擁護したということは、反共主義者で「小英国」民族主義の労働党政治による改良主義的枠組をそろって受け入れていることの確固たる証拠であった。ストライキの間、マットガムナのグループは、ニール・キノック率いる労働党を政権に就かせるために総選挙の運動を繰り広げた。キノックはスト破りを煽るそのやり口で、ストライキ鉱山労働者から広くいみ嫌われている。もっと下劣なことを書けば、1990年、マットガムナの社会主義オルガナイザー・グループは、労働者の権力とともに、ロシア人ファシストであるユーリ・ブチェンコによる旅行を後援したが、このブチェンコはCIAとMI6(英軍事情報部)と共謀して活動し、ソビエト鉱山労働者によるストライキ中に寄せられた寄付金を横領したというでっち上げの罪をスカーギルになすりつけようとした人物であ る。
反米主義が安っぽい試みであるイギリスの地で活動するなかで、マットガムナは シャクトマンによるベトナムとキューバでの米帝国主義支持から決別しようとしている。そして 「シャクトマンの政治生活にとってのこの結末は、社会主義者達にとって彼の記憶に暗い影を投げかけるにちがいない」と主張している。しかし、マットガムナ自身が奉ずる社会愛国主義のまぎれもない悪臭が、次のような彼の本の序文の数個所に漂っている。
「ソ連邦が世界第二の大国だった第二次大戦後の世界では、米国と西欧の先進資本主義が競い合う陣営のなかでより進歩的であるという認識、より豊かな可能性とより大きな自由と社会主義者が足場とすべきより多くを与えるもので あるという認識は、私が信じるには、社会主義政治にマルクス主義の決定力を復活させるうえで必要とされる要素だった。」
ここにあるのは、イギリス帝国主義が、パレスチナ、アイルランド、ギリシア、キプ ロス、インド、それに香港で犯した犯罪に対する卑屈な弁解であり、またアルジェリアの独立闘争とベトナム革命に反対した残虐な帝国主義戦争への卑しい弁解に他ならない。西洋の帝国主義列強によって絞殺された国々の被抑圧大衆たちによる闘争をまったく軽蔑する独りよがりの社会民主主義者だけが、こうした文章を書くことができる。ところが、スターリニズムに対するトロツキーの闘いを広範に扱ったと称するマットガムナの156頁に及ぶこの序論は、1925年から27年の 第二次中国革命をスターリンが絞殺したことに対して左翼反対派が行った闘争については一言も言及していない。永久革命はマットガムナによる名ばかりの「トロツキズム」には決して含まれていなかった。彼はスターリニストの階級協調綱領になんら嫌悪感を抱いてない。それどころか、彼はそれを十分に共有している。
マットガムナは、帝国主義ブルジョアジー(それにスターリニスト達)と同様に、 レーニンとトロツキーのボリシェビキ党と、1924年に権力を横奪し、意識的に 「一国社会主義」という誤ったドグマへと最初の一歩を踏み出したスターリニスト官僚層とを同一視する。また、資本主義復活に妥協的なブハーリン/トムスキー分派とスターリン周辺の中間主義分子とのブロックであった1925年から28年の官僚主義と、1928年以降に優勢となる官僚主義的中間主義のスターリン派閥とを同一視する。 さらに、以上全てと、1933年にドイツのプロレタリアートを一撃もなくヒトラーに降伏させた反革命的スターリニスト機構とを同一視する。このドイツの事件は、トロツキーが述べているように、「現在のソ連邦共産党(CPSU)は党ではなく制御不能な官僚主義が掌握する支配機構であ る」ことを立証した(『新たに共産党とインターナショナルを建設することが必要である』、1933年7月15日)。簡潔にいえば、マットガムナは、1924年に政治的反革命が起こったという事実を意図的にうやむやにしようとしている。この政治的反革命は質的転換点だった。それ以降スター リン分派は優勢となり、ソ連邦は堕落した労働者国家になったのである。この質的転換は立証可能である。つまりボリシェビズムとは相容れない異なる方法を使う異なる指導部によって実行される異なる綱領がそれである。マットガムナ(とカウツキー)の見解によれば、スターリニズムは、レーニン主義から組織的に必然的に成長したものであり、トロツキスト左翼反対派は重要ではなかった。
実にマットガムナにとって、「原罪」とは、十月革命そのものだった。彼は自分の著作集の序論で次のように主張している。「1917年の権力奪取は、無謀な自滅的行動だったことが判明した。ボリシェビキ党の物理的存在にとって無謀な自滅的行動だったばかりでなく(究極にはその通りであったが)、あらゆる政治的見解にとっても無謀な自滅的行動であった」。マットガムナは、カウツキーとメンシェヴィキによってなされた同じ議論を繰り返している。カウツキーとメンシェヴィキは、当時、ロシアがプロレタリアートの権力奪取にとって十分「経済的に成熟」していないと主張した。これは、労働者革命にたいする彼らの心底からの嫌悪と恐れを正当化する論理的根拠であった。
マットガムナは、実際全ての修正主義的元イギリストロツキストの真の綱領は何かを公然と述べている。つまりそれは、新たな十月革命に反対してイギリス労働党の足下にひれ伏すことである。こうした修正主義者達の政治方針は、彼らが正式な労働党の党員であるかどうかにかかわらず、結局のところせいぜい「労働党左派を闘争させる」という姿勢に他ならなかった。ところが、過去と現在における「民主主義的」 帝国主義への支持が物語っているように、マットガムナとその同類にとって、こうした姿勢でさえ幾分作り話にすぎなかった。彼は、NATOのセルビア空爆に対する排外主義的支持によって、トニー・ベンのような「左派」労働党の右に位置づいた。われわれは、あらゆる似非左翼とは反対に、イギリス列島で資本主義を打倒する革命的戦略の一部として、労働者階級基盤を労働党のブルジョア指導部から分裂させる革命的綱領で党を鍛え打ち固めるために闘う。
シャクトマンは、彼の組織をアメリカ社会党内に解党させつつあったとき、「アメリカの共産主義、過去の再検討」と題する論文を書き、共産主義者が社会民主主義と分裂したことを嘆いている。(『ニュー・インターナショナル』、1957年秋)古きアメリカ社会民主主義にたいするこうした郷愁が語られている。とりわけ、彼は、アメリカの黒人の試金石となる問題を無視しなければならなかった。これは旧社会党と初期の共産党との違いが質的となる問題だった。こうして、シャクトマンは、1957年、過去を振り返ってアメリカ社会民主主義による暗黙の人種差別主義を受け入れたのである。
シャクトマンは初期のレーニンに同情的だったが、それはレーニンが革命的社会民主主義者から共産主義者へと前進を遂げる以前のことだった。シャクトマンが共産主義者レーニンに関して真に嫌悪していたことは、レーニンがプロレタリア革命の前提条件として労働者階級内に政治的分裂の必要性を認めたことだった。1920年、コミンテルンは、その第二回大会で、カウツキー派の「全階級の党」に対するこうした拒絶を成文化した。「共産主義インターナショナル加入のための21条件」は、共産主義と、革命の改良主義(とりわけ中間主義)的敵対者との間に鋭い綱領的な線を引いた。
カウツキーからシャクトマン、クリフ、マットガムナに至る面々が説いたソ連邦のあらゆる「国家資本主義」論や「新階級」理論は、資本主義とスターリニズムの間に位置する幻の「第三陣営」の探求に基づいて述べられた。そしてこうした陣営は「自国」支配階級の側にしっかりと位置づくことを遅かれ早かれ(たいていは早期に)常に証明した。われわれは、帝国主義と反革命から十月革命の残存する獲得物を防衛するために、力 の限りを尽くして闘ってきたことを誇りとする。そして今日、残存する歪曲された労働者諸国家、つまり中国、キューバ、ベトナム、北朝鮮を無条件に軍事的に防衛するために闘っている。われわれは、こうした労働者国家を資本主義反革命の瀬戸ぎわへと追いやったスターリニスト官僚を一掃するプロレタリア政治革命を目指す。
「一国社会主義」は破綻し、1917年のロシア革命によって切り開かれた世界社会主義の可能性から後退することが判明するだろうというトロツキーの予測は、否定的に確証された。今日のわれわれの闘争は、世界中で新たな十月革命を通じてトロツキーの綱領の正しさを立証し、世界的規模で資本主義の帝国主義体制を粉砕しプロレタリア国家権力を確立することである。この任務は、ボリシェビキ革命の最終的な破滅の後では計り知れぬほどより困難になっている。このボリシェビキ革命の最終的破滅は、スターリニスト自身だけによって遂行されたのでなく、自国の社会民主主義労働官僚を受け入れるなかで、他 国の反革命を歓迎したクリフやマットガムナのような連中のおかげをもって成し遂げられたのである。
今日、こうした似非左翼諸組織は、階級的裏切りの戦略を推進し、ヨーロッパの10数カ国における緊縮財政や人種差別主義や帝国主義戦争の社会民主主義政府を支援している。彼らは、プロレタリア意識に対する障害物であり、死の苦悶にあえぐ資本主義体制を終結させるために不可欠な革命的トロツキスト党を建設する過程で、暴露し一掃されなければならないのである。
『スパルタシスト』英語版55号、1999年秋より翻訳
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